第10話(最終話) 0.3秒のさよなら
「行かせてあげていいですか」という田村さんの言葉の意味を、サキはすぐには理解できなかった。
何度も頭の中で反芻してみた。行かせる。どこへ。ひかりちゃんはこの部屋にいる存在で、どこかへ行くものではない。そう思っていた。けれど、田村さんの声色には、どこか悲しさと同時に、一種の決意のようなものが感じられていた。
少し考えて、サキは「お母さんに聞いてみてください」と返した。
親子で決めるべきことなのだ。自分は仲介者に過ぎない。7年間、ひかりをカメラに映してきたから、その関係が特別だと思っていたが、一番大切なのは母と子の絆だった。
その夜、サキはベッドに横たわったまま、天井を見つめていた。ひかりが消える。そういうことなのだろうか。これまでのように、部屋に映り込むことはなくなるということなのか。
考えると胸が締め付けられた。
翌日、田村さんから電話が来た。
「ひかりに、ありがとうって言ってあげてください。もう、大丈夫だって」
声の向こう側で、田村さんが泣いているのがわかった。泣きながら、それでも言葉を続けようとしている。その必死さに、サキも涙がにじんだ。
「わかりました。伝えます」
電話を切った後、サキはしばらく動けなかった。
窓からは秋の日差しが差し込んでいた。季節も随分と移ろってしまった。ひかりがこの部屋に現れるようになってから、どれくらい時間が経ったのだろう。7年という月日がどんな意味を持つのか、今になってようやく理解できた気がした。
部屋の中で、サキは言った。
「ひかりちゃん、お母さんが大丈夫だって。ありがとうって」
声は部屋の中に吸い込まれていった。返事はない。けれど、一種の温かさが感じられた。気のせいだろうか。それとも、本当に何かが応答しているのか。
もう、そんなことは重要ではないのだと思った。
最後にカメラを回した。
手が少し震えていた。これが最後の映像になるかもしれない。そう思うと、何度もピント合わせをやり直してしまう。完璧に捉えたかった。ひかりの存在を、この瞬間を。
確認すると、映り込みは一回だけだった。
ひかりは部屋の真ん中に立っていた。7年前に最初に映ったときと同じような位置に。手を大きく振って――消えた。
その動作に、サキは言葉を失った。手を振るのは、さよならの動作だ。ひかりが意識的に、自分から別れを告げようとしていた。
それからの動画に、映り込みはなかった。
何度も再生してみた。もう一度だけ映るかもしれない。そう思って何十回も同じ映像を見た。けれど、ひかりは戻らなかった。本当に、消えてしまったのだ。
部屋は静かだった。7年間、何かが在る感覚で満たされていた空間が、今は本当に空っぽになった。ひかりがいなくなった現実が、徐々に迫ってきた。
数日間、サキはカメラを触ることができなかった。
けれど、ひかりのためにしなければならないことがあった。世界はひかりの存在を知る権利がある。そして、田村さんもそれを望んでいるはずだ。
サキは動画を一本だけアップロードした。説明欄に「7年間、この部屋にいてくれた子のこと」とだけ書いた。
投稿した瞬間、後悔した。けれど、消すことはしなかった。
コメント欄には「見えました」という言葉が、たくさん並んでいった。
「0.3秒だけ、明らかに何かが映ってますね」
「泣きました」
「この子は成仏できたんですね」
様々な反応が寄せられた。中には懐疑的なコメントもあったが、サキは気にしなかった。重要なのは、真実がそこにあったということだ。
夜中、サキはひかりの最後の映像をもう一度見た。手を振るその瞬間が。
「さようなら、ひかりちゃん。ありがとう」
部屋の暗闇に向かって、サキは言った。
何の返事もなかった。けれど、それでいいのだと思った。ひかりは前に進んだ。母のいるところへ。そして自分も、また別の何かに向かって歩まなければならない。
朝日が窓から差し込んだ。新しい日が始まった。カメラの赤いランプはもう点灯していない。
── (完)