本の余白に 第10話(最終話)「本の外で」

第10話(最終話) 本の外で

向井さんとはそれから、ゼミの後によく話すようになった。

図書館での出会いから三ヶ月。あの時、彼の余白に書かれた言葉を見なければ、こんなふうに毎週顔を合わせることもなかったのだろう。人生とは、本当に小さなきっかけで形を変えていくものだと思う。

本の話が多かった。最近読んだもの、気になっている作家、嫌いな展開、好きな結末。講義室の片隅に座り込んで、時には一時間以上も話し続けることもあった。他のゼミ生たちは先に帰ってしまうが、二人はそれに気づかない。

話していると、余白で知っていた人と、ちゃんと重なった。

実際に会って話をしていると、文字の向こう側の声が聞こえるようになった。彼が本について語る時の声のトーン、言葉を選ぶ時のわずかな沈黙、大事な部分で指を立てるような仕草。そのすべてが、あの余白に書かれた言葉を補完していった。

遅すぎる派だし、素直に言えないし、でも好きなものへの言葉は豊かだった。

向井さんは本当に不器用だ。好きなことについては饒舌なのに、それ以外のことになると、いつも口ごもってしまう。先週も、新しい本をプレゼントしてくれたのに、「良かったら読んでください」とだけ言って、どうして渡したのか、どういった気持ちなのかは、最後まで説明しなかった。でもそれが、彼らしくて良いのだと、最近は思うようになった。

ある日、向井さんが言った。「最初の本、まだ持ってますか」

その問いかけ方に、少し緊張が走った。何か大事なことを聞かれている気がした。

「図書館の本なので返しました」と答えると、「そうか」と彼は少し残念そうにした。

その表情を見た時、私は決断した。

「余白、全部覚えてますよ」と言った。

向井さんが驚いた顔をした。その時、彼の表情がゆっくりと柔らかく変わっていった。

「俺も、あなたの字は全部覚えてます」

図書館の蛍光灯の光が、彼の顔を照らしていた。この言葉が、どれほどの重みを持っているのか、その時は完全には理解できなかった。

それが告白なのかどうか、分からなかった。でも、分からなくていい気がした。

本というのは、時に完璧に完成されたものだ。だからこそ、その余白に何かを書き込むことは、ある種の冒涜にも思えた。でも、その冒涜があったから、私たちは出会うことができた。完璧な本の中に、完璧に納まっていては、決して見えない風景があったのだ。

本の余白から始まった関係が、今は本の外で続いている。

講義室を出て、キャンパスの外に。食堂で、図書館で、近所のカフェで。いつの間にか、どこにでも向井さんがいるようになった。彼も同じように、どこにでも私がいるのだろう。

それで十分だった。

本の中の完全な物語ではなく、現実の、不完全で、時には退屈で、でも確かに続いていく日常。二人の関係も、まだ最後の一ページを迎えていない。むしろ、ここからが本編なのだと、最近になって気づき始めている。

向井さんが新しい本を勧めてくれた時、私は迷わず受け取った。今度は図書館の本ではなく、彼が実際に読んだ本だ。ページの端に、彼の付箋が貼られている。その余白には、まだ誰の字も書かれていない。

白い余白を眺めながら、私は思う。ここに何かを書き込むのは、もう少し先でいい。今は、彼とこの本について話すことで十分だ。時間をかけて、ゆっくりと物語を紡いでいく。その過程こそが、本の外の、本当の物語なのだから。

──(完)

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