第9話 ゼミの帰り道
ゼミの帰り、向井さんに呼び止められた。
図書館の入口を出たところだった。秋の夕暮れが校舎の壁をオレンジ色に染めている中で、彼は私の名前を呼んだ。声は小さかった。周囲に誰もいないのに、声を落としているようだった。
「少しいいですか」という声は、静かで、少し緊張しているように聞こえた。
ゼミが終わったばかりで、私の鞄にはまだ資料が詰まったままだった。今日のテーマは「本と読者の関係性」。その議論の最中、向井さんはいつもより口数が少なかったように思う。何か言いたそうで、でも言葉を選んでいるような、そんな雰囲気が彼からは感じられていた。
「図書委員の人ですよね」と彼は言った。「あの本のこと、聞きたくて」
どの本か、とは聞かなかった。分かっていたから。
あの本とは、図書館の蔵書の余白に、前の利用者の言葉が書き込まれている本のことだ。読者から読者へ。見知らぬ人同士が、本の余白を通じて対話する。そこに記された言葉たちは、時に著者の言葉よりも、その本の本質をついているのだ。
「気づいてたんですね」と言うと、「しばらく前から」と返ってきた。「でも、何を言えばいいか分からなくて」
向井さんは私の目を見つめていた。真摯な瞳だった。図書委員の私が、その本に余白で返答を書いたことに、彼は気づいていたのだ。数週間前、彼の「遅すぎる派」という言葉に対して、私は丁寧に文字を重ねた。あのページが、彼の心に何か変化をもたらしたのだろうか。
遅すぎる派、という余白の言葉を思い出した。
あの言葉は、彼のもの。その後に続いた議論の数々も。本を読むのに、遅すぎることがあるのか。人生に、後悔を拭う機会が訪れるのか。そんなテーマで、彼は何度も本に言葉を記していたのだ。
「私も何を言えばいいか分からなかったです」と正直に言った。
歩きながら話そうと、私たちは緩い坂道を下り始めた。キャンパスから駅へと向かう道のりだ。この季節、この時間は特に美しい。落ち葉が舞い、風がそれを追う。その中で、私たちはようやく顔と顔を合わせて話す、初めての真摯な会話をしていた。
図書館では、距離があった。本を介して、見知らぬもの同士として存在していた。でも、その本の中で、私たちは確かに心を通わせていた。
「でも、あの返答をもらった時、ああ、この人は自分のことを分かってくれているんだ、って思ったんです」と向井さんは続けた。「変な話ですけど」
変な話じゃない、と私は思った。むしろ、本当のことを言っているのだと思った。
「ここでの言葉のほうが、俺のことをよく知っている、って書いてくれましたよね」
あの一文だ。本当は、ここではない場所での関係を指していたはずだ。けれど、何か違う意味で受け取られたのだろうか。
「はい」
「それ、俺もそう思います。あなたのこと」
その瞬間、私たちの間に何かが結ばれた。本の余白で育てた関係が、現実の光の中でも存在し得るのだという確認。デジタル化された世界では表現できない、アナログな書き込みのぬくもり。それが、二人の間に微かな信頼を生み出していたのだ。
駅に向かう坂道をさらに進みながら、向井さんと私は、もう一度、その本について話すことにした。本そのものについてではなく、本が教えてくれたこと、本の余白が結んでくれたことについて。
やがて、その会話は、私たちの人生についての会話へと変わっていくのだが、それはまた別の話だ。
──(最終話へつづく)