俺の先輩は変すぎる 第3話「マニュアル外の判断」

第3話 マニュアル外の判断

クレームが来た。

テーブルに出した料理が冷めていると言われた。俺のミスだった。キッチンから出すのが遅れて、ホールで少し時間が経ってしまったのだ。お客さんの顔が不機嫌に歪んでいるのが見える。心臓がドクンと落ちた。バイト始めて三週間。初めてのクレームだ。

すぐに謝ろうとしたとき、桐島さんが先に動いた。

「大変失礼しました。すぐに温かいものとお飲み物をお持ちします」

声は低く、動作も素早い。桐島さんはお客さんの前で一度深く頭を下げると、俺を目で促して厨房へ向かった。その一連の動きはまるで水が流れるように滑らかで、観ていて息が止まるほどだった。

厨房に戻ると、俺は桐島さんに聞かずにはいられなかった。

「桐島さん、今のはルール帳に書いてありましたか?」

俺たちの店には分厚いマニュアルがある。新人研修で何度も読まされた。クレーム対応のページもある。でも、あの時の桐島さんの対応は、その中のどれにも当てはまらない気がした。

「書いてない」

「じゃあどうして?」

「ルールがないときは、相手が一番嫌な状態を取り除くことだけ考える。あのお客さんは待たされてた。だから先に見通しを伝えた」

俺はその言葉を反芻した。あのお客さんは、料理が冷めていることそのものより、これからどうなるのか分からない不安に苛立っていたのか。マニュアルには「丁寧に謝罪し、代替料理の提供を申し出る」と書いてあった。正しいルールだと思っていた。でも桐島さんのやり方は違う。相手の心の中を見ているようだ。

「それは合理的というより、人への気遣いに聞こえるんですけど」

俺の言葉に、桐島さんはゆっくりと肯定した。

「そうだな」

「それもルールなんですか?」

桐島さんは少し間を置いた。その間、彼女は新しい料理を盛り付けるのに集中していた。手は止まず、目は下を向いたままだ。でも、その沈黙は悪いものではなく、何かを考える時間に思えた。

「そうかもしれない。一番大事なルールかも」

つぶやくような声だった。桐島さんはトレイを持ち上げると、ホールへ出ていった。後に残された俺は、その背中を見つめながら、自分がこれまで理解していた「正しさ」というものの輪郭が、少しずつ曖昧になっていくのを感じていた。

あのお客さんは、その後、出てきた温かい料理をおいしそうに食べていた。帰り際、店員に向かって軽く手を上げて帰っていったという。マニュアルにはない判断。でもお客さんの笑顔に繋がったその判断が、本当のところは一番重要なルールなのかもしれない。

俺はそう思い始めていた。

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