第7話 セラの秘密
店に戻ってセラに橋の話をした。澄んだ川のこと、上流と下流が見えたこと。その先に広がる景色のこと。石橋の上で感じた、何か大切なものを失いかけているような、あるいは何かを見落としているような、そんな不安定な気持ちのことも。
セラは聞きながら、少し遠い目をしていた。手にしていた羅針盤をゆっくりと回転させながら、私の話に耳を傾けている。その表情は、何か遠い過去を思い出しているようでもあり、未来を案じているようでもあった。
「いい景色だね」とセラは静かに言った。
「本当だ。君も見に来たらいいのに」
セラはそっと羅針盤を置いて、私を見つめた。「一緒に来ない?」と言った。「次に羅針盤が示す場所に」
期待が湧き上がった。セラがこの店を出て、一緒に旅をする。そんなことができるなら、どんなに素晴らしいだろう。
セラの手が止まった。「……私は来られないよ」
「なんで?」
彼女は少し沈黙した後、言った。「この店を離れられないの」
「そんな決まりがあるの?」と聞き返した。それは何か不公平だ。規則のようなものに人を縛りつけるなんて。
「決まり、というか……」セラは手元の地図を見た。その地図には、幾本もの線が引かれていて、赤や青の羅針盤のしるしが付けられていた。「私がここを離れると、店の羅針盤が動かなくなる。全部、止まってしまう」
驚いた。「それって……」
「地図師の家系には、そういうものがあって。場所を守る人間と、場所を導く道具は、対になってる」
セラの声は静かで、説明的だったが、その中に何か深い疲労が潜んでいるように聞こえた。
「場所を守る?」
「この店は、ただの商店じゃない。羅針盤の源がここにあるの。この屋根の下にある、古い井戸の底に。その場所と、ここにいる人間が、つながってる」
セラは立ち上がり、店の奥へ続く暗い廊下を見た。
「だから私がここを離れたら、羅針盤たちは動かなくなってしまう。町中の人たちが使ってる羅針盤も、この店の羅針盤も。全部、私とこの場所に依存してる」
そう言う彼女の横顔は、月光に浮かぶ石像のように見えた。
「嫌じゃないの?」と聞いた。
セラは少し考えて、「嫌だよ」と言った。その言葉は、率直で、誠実で、だからこそ深く突き刺さった。
「でも私がいなくなったら、誰かが行けなくなる場所がある。迷子になる子ども、帰り道を忘れた大人、別れた誰かを探してる人。そういう人たちが羅針盤を頼りに、やっと進める道もある。それも嫌だから」
セラは地図に目を落とした。その地図の上に広がる幾つもの線は、誰かの人生の物語なのだ。希望の先の地点を指す無数の矢印。
私は何も言えなかった。正しい言葉が思いつかなかった。セラが背負っているものの重さが、ようやく分かり始めた気がしたのだ。
「だからさ」とセラは続けた。「君が行ってくれたら、いいんだ。羅針盤が示す場所を。君がその先を見て、戻ってきて教えてくれたら」
その時、セラの目は初めて、遠くなく、近くもない、今この瞬間を真っすぐに見ていた。
── 第8話へつづく ──