第7話 退去の理由
不動産屋の担当者は、電話ではなく直接会いたがった。
声だけでは伝えにくいことがあるのだろう。電話口での言い淀みがそれを物語っていた。俺は指定された時間に、駅前の古ぼけた不動産屋の事務所を訪れた。
事務所に入ると、担当者は少し神妙な顔をしていた。応接室に通され、湯気の立つ緑茶を出されたが、手をつけることができなかった。
「実は……前の住人の方から、先日連絡がありまして」
担当者が切り出した言葉は、予想外のものだった。
「連絡?」
「あなたが入居したと聞いて。それで、伝えておいてほしいことがある、と」
担当者が机越しに差し出した紙は、少し黄ばんだA5サイズの便箋だった。手書きだった。字は几帳面だが、どこか不安定だった。
『壁の音に返事をしないでください。返事をするたびに、向こうが近づいてきます。私が退去したのは、近づきすぎたからです』
文字は随所で少し震えていた。特に最後の一文は、かなり乱れていた。
俺は黙ったまま、その紙を読み返した。何度も。
「この方、今どこに?」
「それが……入院されているそうで。詳しくは教えてもらえなかったんですが」
入院。その一言だけで、状況の重大さが伝わってきた。
担当者は続けた。「実は、この物件……いくつか……」
言葉を濁す担当者に、俺は視線を向けた。
「いくつか?」
「退去理由が、曖昧な方が複数いるんです。この方の前の住人も。契約満了までいないで、急に退去されて。理由は、特に伝えられなかったと」
複数。その言葉が頭の中で反響した。
返事をするたびに近づいてくる。
2倍になる音の意味が、別の解釈を持ち始めた。距離が縮まっているのだとしたら。3回が6回になるのは、ただの反響ではなく、何かが近づいている証拠だとしたら。
それまで音のような幻覚だと思っていたものが、突然として現実味を帯び始めた。
「契約をキャンセルすることは……できますか?」
俺の質問に、担当者は肩をすぼめた。
「残念ながら。特に契約違反がない限りは、キャンセル料が相当かかります。半年分の家賃相当。それに……」
「それに?」
「本当のところ、この物件は借り手がなかなかつかないんです。退去理由が不明確だから。もし今ここで退去されると、さらに……」
言葉の続きを聞く気力がなかった。不動産屋も、この物件が何かおかしいことを知っているのだ。だから、わざわざ俺を呼びつけた。情報を与える代わりに、ここにいてほしいのだ。
家に帰ると、俺は壁を見た。
昨夜の返事をして以来、音はない。静寂だけがある。その静寂がかえって不気味だった。近づいてきているのなら、音はもっと大きくなるはずだ。でも、何も聞こえない。
それとも、もう十分に近づいたのか。
俺は手帳に記されていた、壁を叩いた日時を整理してみた。
1日目:1回
2日目:2回
3日目:4回
4日目:8回
5日目:16回
純粋な倍数。これが反響なら、こんな規則正しい増加はあり得ない。反響は徐々に減衰していくはずだ。それなのに、毎回完全に2倍になっている。
それは、叩かれている。こちらのリズムに合わせて、向こうが計算して、こちらが叩いた分だけ返してくるのだ。
壁に耳を当ててみた。
向こう側からは、何も聞こえなかった。ただ、かすかな呼吸音のようなものが、壁を通して伝わってきているような気がした。気のせいかもしれない。
今夜は、叩かないでおこうと思った。
もう十分だ。これ以上近づかれては、やばい。前の住人が入院したのは、壁の向こうが限界まで近づいたからなのだろう。
だから、俺は返事をしない。
でも、返事をしないということは、向こうは満足しないということなのか。それとも、もう満足してしまったのか。
外は雨になっていた。
雨音が窓を叩く音を聞きながら、俺は壁の向こうの沈黙を感じていた。
──(第8話へつづく)
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