私は、逃げることにした。
こんな部屋、家賃が惜しくても、住み続けられるものか。私は不動産屋に電話をして、解約を告げようとした。
でも、電話は、つながらなかった。何度かけても、機械的な話し中の音が鳴るだけ。ネットも、いつのまにか通じなくなっていた。
荷物をまとめて、外に出ようとした。玄関のドアを開けると——そこは、廊下ではなかった。
もう一つの、私の部屋だった。
左右が、反転していた。玄関を出たはずなのに、私は、鏡に映したような、自分の部屋のなかに立っていた。窓の位置が逆。キッチンが逆。すべてが、裏返しだった。
鏡の、向こう側だ。
私は、あの鏡のなかに、取り込まれていた。
部屋のなかを歩いた。反転した部屋のクローゼットに、貼り紙があった。私の部屋にあったのと、同じメモ。でも、字が違った。
『ここから出るには、次の誰かに、席を譲るしかない』
次の誰か。
私は理解した。前の住人は、私に部屋を「譲った」。老女も、誰かに。この鏡は、ずっと、住人を入れ替えながら、飢えをしのいできたのだ。反転した部屋に一人を閉じ込め、その者が新しい住人を鏡に引きずり込めば、前の者は、解放される。
手招きは、そういう意味だった。おいで、私の代わりに、ここへ。
窓の外を見た。反転した街が、静かに広がっていた。人の姿はない。動くものは、何もない。ただ、正面の壁に、大きな鏡があった。
その鏡のなかに、本物の廊下が見えた。私の、もといた世界の廊下が。
そして、そこに、私が立っていた。
いや、私の顔をした、何かが。にやりと笑って、私のいた部屋のドアを開け、なかへ入っていった。
私の生活を、私の代わりに、生きるために。