黒田さんは、毎晩、ドリンクバーだけで六時間ねばる。
さすがに気になって、僕は聞いてみた。
「黒田さん、お家、帰らなくていいんですか。会社、あるんですよね」
黒田さんは、コーラを片手に、遠い目をした。
「三上くん。きみは、まだ若い。だから、わからないだろう」
「何がですか」
「私は、部長だ。部下が四十人いる。毎日、決断、決断、また決断。責任という重圧に、押しつぶされそうな日々だ」
「大変ですね」
「うむ。だがな、ここでは違う。この深夜のファミレスでは、私は、ただの『ドリンクバー配合を研究するおじさん』だ。誰も、私に決断を求めない。責任もない。ここでは、私は、自由なのだ」
なるほど、と少し思った。
「家に帰れば、妻に『あなた出世したのに元気ないわね』と言われる。会社に行けば、部下に頼られる。私の居場所は、この午前三時の四人席だけなのだ」
「せつない理由ですね……」
「せつなくない! これは、崇高な現実逃避だ!」
そのとき、店の電話が鳴った。僕が出ると、女性の声だった。
「あの、うちの主人、そちらにいますか。黒田っていう、スーツの……」
奥さんだ。
僕がちらりと黒田さんを見ると、彼は必死に首を横に振って、両手で「いない、いない」のジェスチャーをしていた。
「え、ええと……」
僕が言いよどんでいると、奥さんは、ため息まじりに言った。
「いいのよ、いるのわかってるから。あの人、毎晩そこでしょ。ドリンクバーの研究とか、くだらないこと言って」
「ご存知……なんですか」
「ええ。でもね、あの人、家だと本当に元気なくて。そこにいるときだけ、楽しそうなの。だから、追い出さないであげて。もう少しだけ、遊ばせてあげて」
電話を切って、僕は黒田さんを見た。
奥さん、全部わかってて、見守ってるんだ。
「黒田さん」と僕は言った。「究極のドリンクバー、まだ完成してないんでしょう。頑張ってください」
黒田さんは、ちょっと涙ぐんで、コーラをぐいっと飲み干した。
「……うむ。私は、まだ、諦めんぞ」
この人の戦いは、まだ終わらないらしい。